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山々に囲まれた高冷地の檜枝岐村は、昔から山の恵みで生活を支えてきました。良質のヒノキ材を産した事から「檜枝岐」と村の名前が付けられました。 檜枝岐村では、山で仕事をする男達のことを山人(やもーど)と呼び、山人たちは木の伐採や猟、木工製品づくりをしながら何日間も山小屋に泊り込んでいました。 ネズコと呼ばれる黒檜を使用して作った民芸品である「曲げわ」は、山人の冬の手仕事としてメッツ(お弁当箱)やおひつ、花桶などが作られてきました。 薄い板状にした黒檜を熱湯で煮込んで曲げ、桜の皮で留めるという工程です。 黒檜には、独自の香りが少なく抗菌性が高いという特性があります。メッツは、余分な水分を吸収して冷めても旨味が逃げません。無垢材で仕上げているので、色や木目の違いを楽しめ、使うほどに味わいも増します。
現在、檜枝岐村で曲げわ作りの職人さんは星寛(ゆたか)さん(88歳)ただ一人。40歳から曲げわ作りを始めました。それ以前は、サンショウウオを燻製にして出荷する仕事や製材所で働いていました。 子供の頃には、祖父が曲げわを作っているのを見ていましたが、祖父と同じように出来ない工程があったので、簡単にできるような道具を自分で作りました。 三角形のメッツ(右上画像)の形を固定しておく、留め具も手作りです。祖父の作った曲げわ(画像右下) 今ではネズコの材料が少なくなってしまったので、作られるものや数が限られてきました。 全国でも類を見ないという三角形のメッツ。蓋の表面には「まさ目」の部分を使用して、40年程の年が刻まれています。材料によって出来上がりの高さなどが微妙に異なります。蓋の加減は絶妙なバランスで仕上がっていて、 大きすぎても小さすぎてもダメ、皆が気に入ったように作るのはとても難しいそうです。 過去には、交通事故で頭部の手術をして集中治療室で過ごした経緯もありましたが、無事に退院することが出来、リハビリ期間を経て、曲げわ作りを再開する事が出来ました。 現在は、毎年地元の小学生に教えたり、昭和村の織姫さんが、からむし織で使用するオボケを作ったりしています。時間がかかっても、星さんの作ったものが欲しいと遠方からのファンが絶えません。
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南郷刺し子は、伊南川流域の南郷地区の独自の文化で、半纏に様々な模様を施します。 綿が貴重だった時代に、布を丈夫にする為、2・3枚の布をはぎ合わせにしたり重ね合わせて刺し子をする事で補強して保湿性を高めています。 数種類の文様が美しく施されているという刺し子は、全国でも類を見ないようです。仕事用に着る刺し子半纏とは別に、装飾を施した刺し子半纏は、おめでたい行事などに着る一種の晴れ着とされていました。 それぞれの模様には意味があり、家を守る女性たちが家族の健康や繁栄を願いながら一針一針縫い 農作業の合間や 冬の手仕事として受け継がれてきました。 女性たちは、きれいな模様の刺し子を作り、腕を競い合ったそうです。嫁入り前の花嫁修業としても懸命に腕を磨きました。
「麻の葉」「ますがた」「七宝」「亀甲」などの模様は、夫を外の病気から守る意味を込めて 「ぐのめさし」の模様は、体に毒が入らないように・・・「山刺し」は、丈夫で働いて・・・ 「ますざし」は、ますます繁盛を祈り、「麻の葉」には、作物の豊作の願いが込められています。
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この地域にしかない南郷刺し子の文化を後世へも伝えようと、「南郷刺し子会」を地元の婦人会の人々が立ち上げました。 無くなりつつある文化であった「南郷刺し子」を改めて見た際に衝撃的な感動を受けて「この場所にしかない文化を今、自分達が残さなければ、もう誰も残す人はいない」と使命感を受けたのがきっかけでした。 刺し子をしている時間は、無心になり心が穏やかになれるそう。「今、手作りの良さを見直して肌で感じて欲しい。」そんな想いで一針一針心を込めて仕上げています。 健康や幸せを願いながら作られた半纏は、人の愛情やぬくもりを纏う喜びと共に後世へ伝え継がれていくのでしょう。 |
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只見町では、自生するマタタビやアケビの蔓を編み込んで作った、つる細工が生活用品として使われてきました。町をあげてつる細工の編組技術とデザインを研究して、その応用技術は全国にも類を見ないほど。材料となる蔓の採取から、一人の職人の手によって一つ一つ手作りされています。その温もりのある素朴さから伝わる魅力は、実用品だけでなく民芸品やインテリアとしても幅広く愛されています。
只見町黒谷地区の小沼なか子さんにお話を伺いました。バスガイドの仕事をされていたという小沼さんは、黒谷地区の風土や歴史なども詳しくお話してくださいました。この地には、後白河天皇の第三皇子・以仁王(高倉宮)が平家追討に失敗したという伝説があり、 京都の「黒谷」に似ている事からそう呼ばれるようになったといわれているそうです。 小沼さんは退職後につる細工を始めました。材料の蔓を自分でに山へ採りに行ったり、蔓の下処理をするのには手間ががかかります。高齢になると、材料を採りに山へ行く事が出来ず辞めてしまったという方も多いです。編み始めると、手提げバッグなら3日程で仕上がります。短い蔓でストラップやキーホルダーなら、すぐに出来上がります。小沼さんが初めて作ったかご(画像中央)。 材料によって色や質感などの違いがあり、山葡萄で作ったつる細工は、使い込むほどに艶が増してきます。 材料の特徴を生かしたものや、自分で工夫してデザインを作ったりと 現在は小学生のクラブ活動等でつる細工を教えています。意欲的に取り組む子供は、覚えるのも上達するのも驚くほどに早く、大人も顔負けです。材料が採れる時期や量は限られていますが、子供達に自然と共に遊ぶ楽しみも教えたいという思いから、つる細工が出来ない時期には、ヒロロで風車を作ったりすると、子供達は目を輝かせて遊んでいます。「自分の手で作る喜びや楽しさから学ぶ事を伝えたい。」そんな願いで自らも、つる細工を楽しんでいます。
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昭和56年4月に「国指定重要伝統的建造物群保存地区」に指定された大内宿は、江戸時代の宿場風情を今に残す茅葺屋根が立ち並びます。戊辰戦争の際には、会津軍と新政府軍との激戦の場となり、会津軍後退のときに焼き払いに遭うところでしたが、当時の名主による決死の抵抗より免れたといわれています。 そして明治時代になり、日光街道が開通すると、日光街道から遠く時代の波に取り残されたことにより茅葺屋根の家並を残すこととなりました。 茅葺屋根を維持する為の葺き替えは、およそ15年に1度の割合で、全体の面積の3分の1ずつ葺き替えます。村内で協力し合い、「結い」とよばれる 助け合いながら暮らしています。 毎年9月には防災訓練が行われ防災意識を高め、大切な次世代へ受け継ぐために村が一丸となり伝統を守っています。
茅葺屋根職人で大内宿「こめや」のご主人、吉村徳男さんにお話を伺いました。 吉村さんは、かつては役場職員として勤務していました。高齢化と後継者の問題に直面していた大内宿を「もう自らがなんとかしなければいけない!大内宿の伝統文化を後世に残したい」という一心で、辞表を出し、葺屋根職人の親方に弟子入りしました。45歳のときでした。 一人前になるまで酒を飲まないと決めていた吉村さんに親方が「今日から飲め」と言われた時は、とても嬉しくて今でも良く覚えています。その後、仲間と廃校になった校舎に屋根葺き練習場を作り、後世を担う若者達に茅葺の技術を伝える勉強会を毎週開いています。 まずは、屋根葺きで使用する道具を自分で作ってきて始めて参加できるようになります。大内宿の若い担い手達は「自分の家の屋根を自分の手で作りたい」「職人である父のようになれたら」という想いで意欲的に学んでいます。 女優の綾瀬はるかさんが番組撮影で屋根葺き体験をした際の手袋と記念写真も大切に飾られていました。(画像右下) 吉村さんは、屋根からの転落も経験しました。背骨を骨折する程の大怪我でしたが、奇跡的に復帰する事ができました。退院後に見た空の色の美しさや草の匂いにも感動を覚え、これまで当たり前になっていた事を改める良い機会と考えました。今後は誰も同じような怪我をしないようにと、命綱の徹底や冬の屋根の雪下ろし時のルールも作りました。
大内宿で行われる行事は、子供達も地域社会の一員として参加します。伝統を守り大切に伝え継ぐために、地域が一丸となって取り組んでいます。 吉村さんが後世の為にと思い行動している事は、ひいては自分の為でもあるのでは?と思う出来事がありました。ある年のお盆のj頃、孫が「さっき、爺ちゃんのお父さんが来ていったよ。」と言うので「なんで爺ちゃんのお父さんと分かった?」と聞くと「その人が、そう教 えてくれたから。」と答えたそうです。 これを聞いて、次世代に残すということは、自分が旅立った後に帰ってくる場所として大切に残している事なのかもしれないと感じたそうです。
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