
会津若松と日光を結ぶ下野街道(会津西街道)は、会津藩だけでなく村上藩・新発田藩・米沢藩も参勤交代などで利用した重要な街道でした。当時の宿場の街並みを今なお残す大内宿には、現在も茅葺きの家が軒を連ね、多くの観光客を出迎えています。
古来より交通の要所であり、鴫山城の城下町として発展し、また、伊達正宗の侵攻に備えたとされる久川城跡なども残っています。江戸時代に直轄領「南山御蔵入領」と呼ばれ、1720年には南山御蔵入騒動と語り継がれる大規模な一揆が起きました。
江戸時代には幕府直轄領でもあり、地理的条件から越後との交流が盛んでした。昭和34年に周辺の村が合併し只見町となり、戦後の電源開発で巨大ダム群が建設されました。田子倉ダムは総貯水量で日本三位、田子倉発電所は日本第二位の出力を誇ります。
平家落人伝説が語り継がれるほか、中央(京都)からの移住者が多かったとされ、周辺の南会津地域とは異なる方言が残っています。また、奉納歌舞伎として演じられている檜枝岐歌舞伎は親から子、子から孫へと受け継がれ、270余年の歴史を誇ります。