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平成30年(2019年)は戊辰戦争から150年という節目の年です。戊辰戦争によって265年続いた徳川幕府・江戸時代が終わり、明治という新しい時代を迎えて、日本は近代日国家へと急速に進み始めました。

 

戊辰戦争は戊辰の年、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に起こった「鳥羽・伏見の戦い」を発端とし、新政府軍と旧幕府軍との間で16ヶ月に渡り戦いが繰り広げられました。京都守護職を拝命するなど、徳川幕府の信頼が厚かった会津藩も新政府軍との戦いを余儀なくされ、慶応4年8月21日(1868年10月6日)会津藩の東側から迫る新政府軍との母成峠の戦いで敗れた後、西側(新潟県側)から、南側(栃木県側)からから進んできた新政府軍との戦いにも敗れ、明治元年9月22日(1968年11月6日)に降伏、若松城(鶴ヶ城)が開城しました。

 

若松城の城下町での火災を城の落城と誤認した白虎士中二番隊が自刃した悲話や、NHK大河ドラマ「八重の桜」で描かれたように、現会津若松市での出来事は良く見聞きすることがありますし、鶴ヶ城を始めとする史跡も多く残っています。

 

また、現在の南会津地方は、江戸時代には幕府の直轄領である「南山御蔵入領」と呼ばれていましたが、戊辰戦争が起こる5年前に会津藩に編入され、先述の西側(新潟県側)から、南側(栃木県側)から進んできた新政府軍と会津藩の戦いは、現在の南会津地方(南会津町、只見町、下郷町、昭和村)でも行われ、戦死者の墓や古戦場跡などの史跡が数多く残っています。

 

今回の特集では、南会津地方に今なお残る戊辰戦争の史跡などをご紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会津地方の戊辰戦争を中心に、幕末の主な出来事を年表にしました。

 

 

和 暦 西 暦 場 所 出来事
文久2年閏8月1日 1862年9月24日 京都 会津藩主松平容保公が京都守護職に就任。
文久3年11月4日 1863年12月14日 南会津地方 南山御蔵入領が会津藩領に編入され、南山御役知となる。
慶応3年10月14日 1867年11月9日 江戸、京都 大政奉還。265年続いた徳川幕府の終わりを象徴する大事件。
慶応4年1月3日 1868年1月27日 京都 鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争に突入。
慶応4年3月17日 1867年4月9日 南会津 会津藩は南側・日光口(現栃木県側)守備のため1,000人の兵を派遣。3/17から21にかけて田島宿・糸沢宿に滞在。
慶応4年7月29日 1868年9月15日 長岡

北越戊辰戦争で長岡城が落城。長岡藩家老河井継之助は八十里峠を越え只見に敗走。

峠越えは困難を極め、8月5日(9月20日)に只見に到着。

慶応4年8月16日 1868年10月1日 只見 河井継之助が村医矢沢宗益宅で没する。
慶応4年8月21日 1868年10月6日 会津 新政府軍は母成峠(現猪苗代町・郡山市)から進軍。会津の東側からの攻撃に対する防御拠点がことごとく突破され、新政府軍の会津城下に攻め入る。
慶応4年8月23日 1868年10月8日 会津 会津藩士とその家族約5,000人が籠城する。
慶応4年8月23日 1868年10月8日 会津 戸ノ口原の戦い(現会津若松市)から飯盛山まで敗走した白虎士中二番隊は、城下町での火災を城の落城と誤認し自刃。19名の若者が命を落とす。
慶応4年8月28日 1868年10月13日 南会津 新政府軍が、山王茶屋に火をかけると伝わる。糸沢集落の龍福寺に駐留。
慶応4年8月29日 1868年10月14日 南会津 新政府軍が田島陣屋を占領。
慶応4年9月9日 1868年10月24日 南会津

田島村の名主・農兵隊が新政府軍が駐留する田島陣屋を急襲し奪還に成功。

佐川官兵衛、河原田治郎、江上又八、朱雀隊などが合流し、兵を3隊に再編成。新政府軍の伊南川南進隊の阻止と、野尻・大芦駐留隊への攻撃が計画された。

慶応4年9月20日 1868年11月4日 南会津

牛首へつりでの銃撃戦(現南会津町伊南地区)。

木伏・大橋での交戦(現南会津町南郷地区)。

※木伏の戦いは21日、23日の諸説あります。

慶応4年9月21日 1868年11月5日 南会津 朴木での交戦(現南会津町伊南地区)。
慶応4年9月22日 1868年11月6日 会津

会津藩が降伏。会津若松城落城。

慶応4年9月23日 1868年11月7日 南会津

9/23・24の時点では南山地方(南会津地方)には会津藩降伏の知らせが届かず、各地で壮絶な戦闘が行われた。

入小屋の戦い(現南会津町南郷地区)。

慶応4年9月24日 1868年11月8日 南会津

滝原の戦い(現只見町)。

大芦の奇襲戦(現昭和村)。

慶応4年9月25日 1868年11月9日 南会津

叶津の戦い(現只見町)。

慶応4年9月26日 1868年11月10日 会津

会津若松城落城の知らせが南会津地方にも届き、南会津の戊辰戦争が終結。

 

 


 

 

 

 

 《 江戸時代末期の南会津地方 》 

 

会津の南西部に位置する南会津は、寛永20年(1643年)に江戸幕府の直轄地となり南山御蔵入領と称され、江戸幕府による直接統治と会津藩による代行統治が繰り返されてきました。文久3年(1863年)11月、会津藩主松平容保公が京都守護職に任命されると、その役料(財政援助)として南山御蔵入領から徴収される年貢が会津藩に支給されることになりました。この措置により南山御蔵入領は「南山御役知(みなみやまおんやくち)」という名称に変更され、戊辰戦争を迎えることになりました。

 

 

 《 8ヶ所の口留め番所 》 

 

会津藩は、新政府軍の侵攻に備えて各番所の防御の強化にあたりました。南山御役知には8ヶ所の口留番所があり、多くの会津藩士を配置したとされています。

 

 

 《 会津戊辰戦争へ 》

 

慶応3年(1867年)、徳川幕府は大政を朝廷に返上します。いわゆる大政奉還によって265年間続いた徳川幕府が実質終わりを迎えました。

 

しかし、入京しようとする旧幕府軍と、それを阻止しようとする新政府軍は、翌慶応4年(1868年)1月、鳥羽と伏見でぶつかり、戦いへと突入しました。伏見の戦いでは、旧幕府軍の主力は会津藩兵と新撰組であったため、会津藩には「開城」、「城・領地没収」の処分が下りました。会津藩主松平容保は20数回にわたり朝廷に嘆願書を提出し謝罪しましたが許されることはなく、会津討伐の命が下され、ついに会津戊辰戦争へと突入しました。

 

 

 《 新政府軍の会津への進軍 》

 

慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は守りが手薄だった母成峠(現郡山市と猪苗代町の境)から会津へと攻め込みました。

 

当時会津藩が最も警戒していたのは、

 ・会津の南側の会津西街道・日光口(現栃木県今市市)

 ・南東側の勢至堂峠・白河口(現須賀川市と郡山市の境)

 ・東側の中山峠・二本松口(現郡山市と猪苗代町の境)

でした。

 

実際に、慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)と5月6日(6月25日)、南側・日光口の守備のため派遣していた山川大蔵(やまかわ おおくら)率いる1,000人の会津藩兵は、現今市市で新政府軍と戦いました。

 

 

 《 南会津地方の戦いの始まり 》

 

慶応4年8月21日(1868年10月6日)、母成峠を破った新政府軍が一気に会津城下に攻め込んでくると、慶応4年8月25日(1868年10月10日)、会津西街道・日光口の総督として田島陣屋(現南会津町田島)に駐留していた山川大蔵に帰城命令が下るなど、南会津地方ので防備していた旧幕府軍は若松に向かいました。

 

慶応4年8月28日(1868年10月13日)、日光口から進んできた新政府軍は、山王峠(現福島県と栃木県の境)にあった山王茶屋に火をつけた後、糸沢宿(現南会津町糸沢地区)の龍福寺に駐留しました。龍福寺本堂の襖には、この時に残されたとされる「芸州弐番隊」という逆さ文字の落書きが今も残っています。

 

また、焼き払われた山王茶屋ですが、その翌年(明治2年)には再建されました。その後、平成18年に南会津町奥会津博物館の敷地内に移築され、現在は古民家レストランとして活用されています。

 

 

 《 南会津の戦い 》

 

慶応4年9月9日(1868年10月24日)、新政府軍に奪われた田島陣屋を、田島村の名主と農兵らが急襲し、奪還に成功しました。佐川官兵衛、河原田治郎、江上又八、朱雀隊などが合流し、兵を3隊に再編成。新政府軍の伊南川南進隊の阻止と、野尻・大芦駐留隊への攻撃が計画されました。

 

この頃新政府軍は、日光口からの攻撃に加え、会津の西側(現新潟県側)から八十里越を経て南会津地方(現只見町)にも進攻してきました。これにより、旧幕府軍は会津の南と西から攻め込む新政府軍と壮絶な戦いを繰り広げることになります(前項の年表参照)。

 

 

 《鶴ヶ城の落城・会津藩降伏の前後 》

 

会津藩が鶴ヶ城で籠城戦をするなか、南会津では各地で戦いが繰り広げられ、会津藩が降伏する慶応4年9月22日(1968年11月6日)の前後は、特に壮絶な戦いがあったと伝えられています。

 

慶応4年9月20日 現南会津町伊南地区内川 牛首(うしくび)へつりでの銃撃戦

慶応4年9月20日 現南会津町南郷地区木伏(きぶし)・大橋 木伏・大橋での交戦

慶応4年9月21日 現南会津町伊南地区耻風(はじかぜ) 朴木での交戦

慶応4年9月23日 現南会津町南郷地区入小屋(いりごや) 入小屋の戦い

慶応4年9月24日 現只見町坂田 滝原(たきばら)の戦い

慶応4年9月24日 現昭和村大芦(おおあし) 大芦の戦い

慶応4年9月25日 現只見町叶津(かのうづ) 叶津で銃撃戦

 

会津藩が降伏したのは9月22日ですが、南会津地方にはその知らせがすぐには届かず、9月23日~9月25日にかけて、南郷・只見・昭和では戦いが続けられました。会津若松城落城の知らせが届いたのは9月26日になってからでした。会津藩降伏の4日後になってようやく南会津の戦いが終わり、会津戊辰戦争は集結しました。

 

 


 

 

 

南会津で行われた主な戦いです。戦いの番号①~⑦とMAP上の番号①~⑦が対応しています。

 

 

 

 《 ① 牛首(うしくび)へつりでの銃撃戦 》 

 

慶応4年9月20日(1868年11月4日)八十里越峠から叶津番所を越えて南会津・南山御役知(みなみやまおんやくち)に入ってきた新政府軍と、旧幕府軍が牛首へつり(現南会津町内川周辺)にて銃撃戦を展開しました。撃ち合いは数時間に及びましたが、勝敗はつきませんでした。[伊南村史第1巻通史編より]

 

 

 《 ② 木伏(きぶし)・大橋(おおはし)での交戦 》 

 

慶応4年9月20日(1868年11月4日)、旧幕府軍が木伏(現南会津町木伏)まで進軍し、押し返してきた新政府軍と交戦しました。翌21日、旧幕府軍は大橋(現南会津町大橋)まで新政府軍を追い詰めましたが、攻めあぐねて勝敗はつきませんでした。※木伏の戦いは21日、23日の諸説あります。[伊南村史第1巻通史編より]

 

 

 《 ③ 朴木(ほおのき)での交戦 》

 

慶応4年9月21日(1868年11月5日)立岩(現南会津町舘岩)を攻撃するために朴木(現南会津町耻風)に進軍した新政府軍の高遠・飯山藩(現在の長野県)隊を旧幕府軍50名が銃撃し、朴木で双方撃ち合いとなりました。飯山藩の2名が足を撃たれ、新政府軍は滝原方面へと敗走しました。[伊南村史第1巻通史編より]

 

 

 《 ④ 入小屋(いりごや)の戦い 》

 

慶応4年9月23日(1868年11月7日)針生(現南会津町針生)にいた旧幕府軍が、入小屋(現南会津町東)にて背後から新政府軍を襲撃しました。新政府軍は後退しますが、なおも両方の山から包囲され、滝原方面へと敗走しました。 [伊南村史第1巻通史編より]

 

 

 《 ⑤ 滝原(たきばら)の戦い 》

 

慶応4年9月24日(1868年11月8日)滝原村(現只見町坂田)にて陣を取っていた新政府軍の加賀藩隊と攻め込んできた旧幕府軍が戦いを繰り広げました。途中から親兵隊や富山兵が加賀藩隊に援軍として加わり、双方に多くの死傷者を出す激戦となりました。[只見町史第1巻通史編1より]

 

 

 《 ⑥ 大芦(おおあし)の奇襲戦 》

 

慶応4年9月24日(1868年11月8日)大芦村(現昭和村大芦)にて陣を取っていた新政府軍の加賀藩・高崎藩(現群馬県)隊を旧幕府軍が早朝に奇襲しました。不意を突かれた新政府軍は応戦できませんでした。[会津野尻組の戊辰戦争より]

 

 

 《 ⑦ 叶津(かのうづ)の戦い 》

 

慶応4年9月25日(1868年11月9日)進軍した旧幕府軍が、入小屋から敗走し叶津に陣を取っていた新政府軍を攻撃した結果、新政府軍は川口(現金山町川口)方面へと敗走しました。

 

 


 

 

 

南会津における戊辰戦争や史跡などについてまとめたリーフレットです。画像クリックでダウンロードできます(PDF A3表裏 4.32MB)。

 

 

 

 

 


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